第4回(2014年5月8日)

前回の復習

近代東アジアにおける「世界」認識の展開

世界はメルカトル図法になった。
・far East (極東)とは。

・逆さまの世界

・近代以降の東アジア認識

・東アジア海域(島嶼社会)

地域研究の陥穽
近代国民国家を単位とした認識
→一国史観・一民族史観
→グローバル化における境界の揺らぎ、ボーダーレス化

しかし、近代という「運動」自体、国民国家を形成しつつ、これを解体する。

この講義に必要な基礎知識
1.地理(東アジア)
2.世界史、東アジア、特に朝鮮半島に関して
3.日本史、特に近代以降について
4.現代日本社会、東アジアに関する「常識」
5.日本社会/自分の「暮らし」の個別性と共通性
★文化人類学・社会学の視点から、東アジア(特に朝鮮半島、日本)の社会・文化の問題を重点的に取り扱うため


近代の眼差し
西洋(近代文明)の遭遇と衝撃
まなざされる「JAPAN」

エキゾチシズム(異国趣味)と近代文明の需要、国民国家化

→映像資料「JAPAN」

基礎知識の確認


ちょっとここで、歴史の基礎


中国における「屈辱の近代」
→清王朝(1616~1912年)支配下の中国は、19世紀後半から半植民地状況に置かれる
1840-1850年代:アヘン戦争・アロー号戦争
→太平天国の乱
軍事技術と産業・交通の近代化(鉄道建設)
→洋務運動(近代化)と中体西用(理念)
But.洋務官僚の私物化(軍閥の形成)


冊封体制の崩壊

冊封体制(近代国民国家の領土、国民意識なし)
→冊封国保護国(植民地)の主張(中央アジア・ベトナム)
→ロシアとの衝突 1858年アイグン条約、1881年イリ条約
→フランスとの衝突(清仏戦争)
東アジアにおける「国境」の生成
→他の冊封国:琉球、朝鮮半島(日清戦争)


明治維新と日本の近代化

不平等条約と条約改正
→立憲政治(近代国家政体の確立。主権国家)
中央集権体制(廃藩置県)、土地制度・税制の確立(地租改正)
→憲法制定、議会開設
政治・経済制度、技術だけでなく、「文化」の近代化(欧米化:文化的植民地化)
→一方で、近代化できない固有の「文化」の強調
→他と区別される「国民文化」の生成



外交:欧米基準:国際法秩序の導入
1871年 日清修好条規(互いに治外法権を認める(互いに不平等条約)
「琉球処分」(1879)冊封体制から日本の領土へ
1874 台湾出兵(琉球島民の殺害事件契機:琉球島民=日本国民)
1875 千島樺太交換条約(北方の領土確定)


朝鮮半島情勢

開国と近代化を廻る内部闘争と混乱
→高宗期:大院君と閔妃一族の対立
1875年:江華島事件
1876年:日朝修好条規:不平等条約。釜山など3港の開港と関税自主権、治外法権
この背景は単純ではない(朝鮮の植民地化の意図だけではない)。欧米への対抗としての「大アジア主義と「近代のエージェント」

東アジアの近代
領土(国境の確定)とその内部の国民を明確にし、独自の文化(西洋に対する対抗)する政治的領域の動きと、これを越えて結びついていく経済。 →分断されると同時に、越境を促される生活世界
→国内レベルでの移動(国民文化・中央と周縁の生成) →国境を越える移動(多文化状況の生成)
欧米の近代性を基盤とした世界システム

映像による日本の近代

第5回(2014年05月22日)

◆大文字の歴史(社会・文化)で起きた事
・列強の東アジア進出、西洋の衝撃
・急速な近代化と挫折、抵抗
・東アジアを覆う市場経済(ただし国民国家単位)
・国民国家の成立、国民・領土、装置としての軍隊、警察、学校(国民文化の生成)
・国民国家、民族主義、ナショナリズム

国家の政治・経済史観で見えないこと(Mの影)
なぜ歴史教育で文化史は「暗記項目」か

矛盾:近代国家の基盤は国民(大衆化)

    議会制、民主主義
    経済・社会の主体はhomo economics(個人)

国家単位では見えないこと

→グローバル化

→小文字の歴史・社会・文化、ネットワーク

◆近代以降の多文化状況

「差異」をどう扱うのか

→社会システムの中で「差異」にどのような位置を与えるべきか

多文化状況は、一つの徴候として、大きな社会的変化の指標である。

マジョリティに対するマイノリティの地位と権利の問題

アイデンティティとその承認の問題

◆多文化状況の文化的側面

共有する価値体系、共通の生活様式、集団的アイデンティティ、共属感情、経験の共有

→近代国民国家の形成過程の問題
→「公共性」の問題
→世間、日本社会、グローバル化の中の「公共圏」「公共性」

◆多文化化-近代への挑戦

近代のパラドクスー多文化状況と国民国家

単一文化的認識と多文化的な認識

グローバル化とローカリゼーション

自由・平等・博愛の矛盾



国内問題にとどまらない

現代社会全体に

途方もない文明論的挑戦

近代の黎明期からはじまる。

◆事例:華僑・華人、朝鮮人

日本3大中華街

 横浜中華街

神戸南京町
 長崎新地中華街

◆在日華僑社会のはじまり

二つの見解

・16世紀後半の長崎開港(1571年)説
・19世紀後半の日本開港(1854年)説

→江戸幕府の鎖国政策の中での「限られた窓」長崎
→同様に「鎖国」政策をとっていた朝鮮王朝

◆日中関係の近代の幕開け

長崎華僑史は日本華僑史の前史であり、安政開国以降在日華僑は神奈川・函館・兵庫・横浜へ移動

→日中関係の近代の幕開け

◆近代の欧米文化との接触の基盤にあった在日華僑

・開港後に来日した欧米の商社-その多くは中国で基盤を築いた。
・開港期の日本市場開拓に際し、江戸時代から長崎で続く華僑、彼らが形成した貿易構造を無視できず、貿易活動を依存。

→外国人居留地中心の貿易
→言語、日本という異文化の壁

◆華僑の二面性
1.貿易商社の代理商・買弁

→後の神戸外国人居留地、商館への展開

2.西洋人の随伴者として料理人、洋服屋、理髪業(三刀)など、近代社会の労働・雑業者

→近代社会のインフラ整備を担った「苦力」





◆Canada Vancouver

◆Canada Vancouver

◆Canada Toronto

◆Canadian Railway


◆日本の外国人受け入れ政策の原点

・来日のパターン、職業、居住様式、マイノリティ集団の形成
・欧米人-華僑-コリアン(アジア系)外国人
・日本と東アジアとの国際関係の変化に大きく影響を受け続ける。

◆江戸期長崎における華僑とオランダ人-日本人の対応

・唐人に対する日本人、特に長崎市民の感情がオランダ人に対する場合以上に親しみ深い-市内雑居の結果生まれた相互の親近感と弊害。「庶民的な雰囲気を作り上げた」

・オランダ人は「ひたすら貿易商売による利益の追求に専念し、」、「長崎市民一般との関係はきわめてうすかった」

(山本紀綱1983『長崎唐人屋敷』306-307)

◆長崎から神戸へ

・日本の地域社会での「雑居」から「隔離」「集住」へ
・日本最初の中華街長崎ー唐人屋敷の形成(1688年)
・長崎新地:鎖国政策の放棄により、1859年長崎港開港、唐人屋敷は廃墟となり、在住中国人は海岸に近い新地に移住
・居住分布のパターン(散住、集住)に対する法的規制(同化か、排除か)

◆集住がもたらしたもの

・日本社会との混交の制限
・隔離と保護の二面性
・定住化の制限と、社会における「位置」の固定
→日本の中華街はなぜ中華料理街なのか
一方で、華僑のアイデンティティ、集団の結束力、民族文化の継承強化

◆神戸・南京町

・1868年に神戸が開港し、外国人用の居留地が設けられた。当時、清国との間には通商条約を結んでいなかったため、華僑は居留地内に住むことを許可されず、西隣の波止場地域(栄町)に居住する。

・明治期の華僑政策と欧米

・華僑登録制度の導入

長崎府府令1868年12月

神戸1870年11月

「清国人取締規則」

背景:神戸の英字新聞「華僑問題」

→華僑の経済的な実力を西洋人が危惧




◆華僑の内地雑居と職業構成の変化

・1871年 「日清修好条規」

華商の急増(在日外国人の半数)

・1894年 日清戦争

労働者の増加

1899年 条約改正による外国人居留地の撤廃。外国人雑居に対する規則



◆勅令第352号、施行規則
内務省令第32号
(1899年:明治32年)

・労働者については、府県長官の許可を受けなければ、居住及びその業務をおこなうことはできない。
・労働者:農業、漁業、鉱業、土木、建築、製造、運輸、挽車、沖士業、その他雑役

→中国人労働者取り締まりを目的

◆勅令の背景

・国内の労働市場の過剰状況
・「非文明的な」中国人の流入阻止

→国内の労働市場が不足した際に、導入されたのが朝鮮人

◆補足:

1871年 最初の陸軍約6,000名
1873年 徴兵令発布(鎮台制)常備兵力31,680名
1889年 (1888年師団制導入)新徴兵令 満17才から40才が兵役義務

平時64,000名、戦時123.000名後方部隊20,000名

→日清戦争(21万人動員)

1904年 日露戦争 開戦時136,000名、最終動員

1,005,000名

→朝鮮人の「内地」への渡航

1927年 兵役法

1931年 満州事変、1937年日中戦争

◆補足2

日中戦争の戦死者約18~19万人(厚生労働省)

1943年 太平洋戦争下の根こそぎ動員

19才から45才までの兵役期間

太平洋戦争中戦死者2,120,000 名:人口の約3%

敗戦時の陸軍総兵力 5,472,000名

      海軍総兵力 1,695,000名

      総計      7,167,000名

同年齢層の男子1,740万人の41%動員

戦死者・動員兵力の総計は約53%

→太平洋戦争中の朝鮮人労働者動員


◆参考
山脇 啓造 (著)2002『近代日本と外国人労働者―1890年代後半と1920年代前半における中国人・朝鮮人労働者問題 (-)』 ,明石書店