数独の危険性について

 「数独」に夢中になって数年になります。9月半ばのある日ついに夜明かししてしまいました。夜8時ぐらいに始め、「もう少しで解けるように見えて結局だめ」を何回も繰り返し、気づいたら朝の6時でした。その問題は翌日になっても解けず、パズルをやって飲まず食わずで徹夜(私にとっては前代未聞)したことを恥じてしばらく放置していましたが、9月末のサンフランシスコ行きの飛行機の中でついに解けました。その時は嬉しさのあまり叫び出しそうになったものです。
 「数独」はすぐれたパズルですが、私は小さい子どもにはあまりこれをやらせたくありません。というのは、このパズルの基本原理は「どんなにむずかしい問題であっても唯一の正解が存在し、何らかの正しい推論に従っていけば必ずそれにたどり着ける」というものです。だからこそおもしろいし、チャレンジのしがいがあるのです。でも、幼いときからこういう問題ばかりやらされた子どもは、人生の、世界のあらゆる問題がこんなものだと思うようになってしまうのではないかしら。「すべての問いに唯一絶対の解がある。最終的にすべてはきっちりとあるべき姿におさまるはずだ。」と。この世界には絶対に解けない問題や、解答がいくつもある問いや、いつまでたってもグレーではっきりしない状況が存在するとたいていの大人は考えるのですが、このような世界観をけっして受け入れられない子どもにとって人生はずいぶんしんどいものとなり、そればかりか悲劇的で不毛なものになる可能性もあるのです。
 「数独」を律する世界観が唯一絶対の世界観ではないと認識できる年齢になる前の子どもにこれを教えるのは危険です。ただ、同じようなことはほとんどあらゆる知識体系について言えることであり、だからこそ「教育」は難しいのでしょう。最もふさわしい時に最もふさわしい知識をどのように与えるのか? ルソーの『エミール』の提起する問題はいつの時代にも共通するものだと思います。

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