東京のこと

 人は何を記憶にとどめ、何を忘れてしまうのでしょうか。昨日、大学時代の恩師の最終講義を聴講するため上京しました。東京には年に何度か行くのですが、大学近くに宿をとって周辺を歩くのは本当に久しぶりでした。学生時代に大学の正門近くのアパートに1年ほど住んでいたので、さっそく尋ねてみようとしたのですが、正確な場所を思い出すことができないのです。だいたいこのあたりという見当はつくのですが、もとの住居はもちろん、見覚えのあるものは何一つありません。界隈の建物が随分変わったせいもあるのでしょうが、何より私の記憶に当時のことがほとんど残っていないのです。
 18歳で上京して以来、2度の中断をはさんで通算10年ほどの間に5カ所で暮らしました。最後の2年半以外は学生という身分でした。20年以上たって当時の生活を思い浮かべようとすると、大学や語学学校(アテネ・フランセなど)のことは比較的記憶がはっきりしているのに対して、他のことは住んでいた場所を含め実にあいまいなのです。しかしながら、その中でもよく思い出すのは、上京直後2年暮らした板橋区のアパート近くの**銀座という商店街(長いアーケードが続き、夜遅くまで店があいていました)にあった数件の小さな古本屋を夜な夜な梯子したことです。大志を抱いて(?)都に出て来たのに、コンプレックスといらだちと日々の生活に対する不満の多い毎日でした。現在に満足できないので、未来に夢を持つか、本の中へと逃避するしかなかったのだろうと思います。狭くほこりっぽいけれど、わりあい整然と並んだ本の間で、いろいろなものを拾い読みして時を忘れた夜、夜、夜。何もないアパートに帰るのが嫌で、でもそうかと言って繁華街に出て行く気にもなれず、結局いつもそこに足が向いたものでした。もはやセピア色に近くなったほろ苦い学生時代の記憶です。

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