ドラクロワ・ショパン・サンド

  フランス19世紀を代表する女性作家ジョルジュ・サンド(1804-1876)は音楽家ショパンとの恋や画家ドラクロワの友人としても知られています。名門貴族の末裔として生まれたサンドは小さい頃から英才教育を受けて音楽や絵画にも造詣が深く、彼女の作品中には大勢の画家や音楽家が登場し、エッセイでも自分の芸術論を展開しています。彼女の自伝『我が生涯の記』には次のような箇所があります。

 

私はドラクロワの色彩については話さない。彼のみが、彼の芸術のこの部分の範を示す権利と技を持っているのだろう。彼の最も頑固な敵も、それを批判する手段を見出せなかったのだ。しかし絵画における色彩について話すことは、それは言葉によって音楽を感じさせ、伝えようと試みるようなものだ。モーツァルトの『レクイエム』を描写することができるだろうか? それを聞きながら確かに美しい詩を書くことはできよう。しかしそれは一つの詩であって翻訳ではない。芸術同士は互いに翻訳されうるものではない。芸術同士は魂の内奥で密接に繋がっているが、しかし、同じ言語を話さないので、それらは神秘的な類推を通してのみ互いに伝達しあうのである。それらは互いに求めあい、結婚し、恍惚のなかで互いに豊かになるのだが、それらはそれぞれ自分自身しか表現していない。(第5部第5章)

 

このようにサンドは自分の芸術論の核心部分でドラクロワの色彩とモーツァルトの音楽を引き合いに出すのですが、ショパンの音楽についてはどうでしょうか。同じ本の別の箇所を読んでみましょう。彼とバッハ、ベートーヴェン、ウェーバーを比べたあと、作者は次のように続けています。

 

ショパンは、趣味がいっそう洗練されており、偉大さにおいてより峻厳であり、苦悩においてより悲痛なものを持っている。モーツァルトのみが彼より優れている、なぜなら、モーツァルトはその上健康な平穏さを持っている、それゆえに生命の横溢感がある。ショパンは自分の力強さと弱さを意識していた。その弱さは、彼が制御できないこの強さの過剰そのものにあった。彼はモーツァルトのように(とにかくモーツァルトのみが作ることができた)単色で傑作を作ることができなかった。彼の音楽はさまざまなニュアンスと意外性に満ちている。時々、非常に稀であるが、彼の音楽には奇妙な、不可思議な、そして苦痛に満ちたものがあるのだ。(第5部第12章)

 

ショパンと10年近く親密な関係を持ったサンドでしたが、彼女によると、ショパンはモーツァルトのような「単色の」傑作を作ることができなかったというわけです。ここで言う単色(teinte plate)の色(teinte)は音楽作品の主調(ton principal)を指しているのでしょう。サンドはモーツァルトやショパンの音楽を表すのに絵画の用語を使っており、最初の引用部分にあるような、芸術が類推によって他の芸術を説明する一つの例となっているのです。

画家をめざした息子モーリス・サンドが1840年から48年までドラクロワに弟子入りしたこともあり、サンドとドラクロワの交流は生涯続きました。ドラクロワがピアノにむかうショパンとそれに耳を傾けるサンドを描いた絵(画家の死後に2つに分割されてしまったのですが)は、今でもそれを見る人にドラクロワ・ショパン・サンド、すなわち絵画・音楽・文学の結びつきについて考えさせるものとなっています。

『フランス絵画の19世紀』展ではパリの「ロマン派生活美術館」(ロマン主義博物館とも呼ばれる)所蔵のアリ・シェフェールの絵を見ることができますが、この美術館はもともとシェフェールのアトリエ住居でした。近所にはドラクロワ、ショパン、サンドも一時住んでいたことがあり、この家は1830年から30年ほどの間多くの芸術家たちの集いの場でもありました。現在パリのロマン派生活美術館にはサンドの孫娘が寄贈した貴重な遺品なども展示されています。

 

参考文献

ジョルジュ・サンド『我が生涯の記』加藤節子訳、水声社、2005

坂本千代『ジョルジュ・サンド』清水書院、1997

 

 

出典:「フランス絵画の19世紀」展(横浜美術館、2009.6.12-8.31)公式ホームページに掲載したエッセー

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