病的?

 ひとつのことが気になると、それが解決するまでずっと気にし続けるちょっと神経症的なところが私にはあります。先日帰宅中に、ふと村上春樹の短編の『納屋を焼く』というタイトルを思い出しました。確か「納屋」も「焼く」も英語では似たような単語(barnとburn)だったと思うと、そのあとは芋づる式にフランス語ではどうだったかと考え、焼くbrûlerはすぐに出てきたのですが、納屋が思い出せません。確か簡単な単語だった、とそこまで出てきているのですが、もどかしい状態が続きます。納屋がだめなら馬小屋は、馬丁は、と次々に英単語と仏単語を頭の中でサーチしました。馬小屋はécurieだけど、英語ではなんだっけとか、馬丁は英語でgroomだが、フランス語は確か全然違ったはず、とか家に帰り着くまで頭の中がぐるぐるしていました。家に帰り着いたらすぐに辞書に駆け寄り、仏語で納屋はgrange、馬丁はvalet d'écurie、馬小屋の英語はstableと確かめるまで、ずっといらいらしていました。こんなことがしょっちゅうあるので、電子辞書を常に持ち歩こうかとも思うのですが、でも、いつでもできるだけ身軽でいたいので、バッグの中にたくさんのものを入れたくないのです。それに、日本語や外国語の単語を調べるだけなら電子辞書を肌身離さず持ち歩けばいいのですが、それで解決しないこともあるのです。たとえば、先日山に登った時、奇妙な鳥の鳴き声を聞いて、同行者と「てっぺんかけたか、という鳴き声よね。何の鳥だったかしら。」ということになりました。「ウグイスではないし、ホトトギスじゃないかな。」と私は言ったのですが、そのあとずっと気になり続けました。これは辞書ではわかりません。帰宅してすぐにインターネットで調べて、ホトトギスの鳴き声だと確認するまで落ち着きませんでした。やっぱり、私も携帯電話を持ち歩いて、いつでもどこでもインターネットに接続できるようにすべきでしょうか。

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