近況: 2010年7月:一覧

病的?

 ひとつのことが気になると、それが解決するまでずっと気にし続けるちょっと神経症的なところが私にはあります。先日帰宅中に、ふと村上春樹の短編の『納屋を焼く』というタイトルを思い出しました。確か「納屋」も「焼く」も英語では似たような単語(barnとburn)だったと思うと、そのあとは芋づる式にフランス語ではどうだったかと考え、焼くbrûlerはすぐに出てきたのですが、納屋が思い出せません。確か簡単な単語だった、とそこまで出てきているのですが、もどかしい状態が続きます。納屋がだめなら馬小屋は、馬丁は、と次々に英単語と仏単語を頭の中でサーチしました。馬小屋はécurieだけど、英語ではなんだっけとか、馬丁は英語でgroomだが、フランス語は確か全然違ったはず、とか家に帰り着くまで頭の中がぐるぐるしていました。家に帰り着いたらすぐに辞書に駆け寄り、仏語で納屋はgrange、馬丁はvalet d'écurie、馬小屋の英語はstableと確かめるまで、ずっといらいらしていました。こんなことがしょっちゅうあるので、電子辞書を常に持ち歩こうかとも思うのですが、でも、いつでもできるだけ身軽でいたいので、バッグの中にたくさんのものを入れたくないのです。それに、日本語や外国語の単語を調べるだけなら電子辞書を肌身離さず持ち歩けばいいのですが、それで解決しないこともあるのです。たとえば、先日山に登った時、奇妙な鳥の鳴き声を聞いて、同行者と「てっぺんかけたか、という鳴き声よね。何の鳥だったかしら。」ということになりました。「ウグイスではないし、ホトトギスじゃないかな。」と私は言ったのですが、そのあとずっと気になり続けました。これは辞書ではわかりません。帰宅してすぐにインターネットで調べて、ホトトギスの鳴き声だと確認するまで落ち着きませんでした。やっぱり、私も携帯電話を持ち歩いて、いつでもどこでもインターネットに接続できるようにすべきでしょうか。

賭博と確率

 大相撲が賭博問題で揺れていますが、「賭けごと」や「一攫千金」に関してはちょっと思い出があります。私はこれまで一度もパチンコや麻雀をやったことがなく、宝くじを買ったことさえありませんが、それには深いわけ(?)があるのです。

 小さい頃から私は非常に射幸心が強かったようで、子供むけの雑誌に出ている様々な懸賞に応募したり、駄菓子屋の「くじ付き」のお菓子を、(お菓子本体のためよりも)くじのためだけに買ったりしていました。そして、「もしこの懸賞(くじ)に当たったら・・・」と空想するのがとても好きでした。中学校の数学の教師だった父は、娘のこういう傾向にかなり不安を覚えたようで、私が小学校高学年だったある日、私に向かって諄々と「確率」の話をしました。父は私に、何か欲しいものがある場合は懸賞やくじにお金をかけるよりも、その分を貯金したほうがずっと近道であるということを論理的そして明快に説明したのでした。幼かった私は全面的かつ徹底的に説得されてしまい、以後はこの「真っ直ぐな近道」を逸れることがありませんでした(!?)。

 ところで、ある知人の話では、彼女のお父さんは馬券でも宝くじでも買えば必ず当たるという人だったそうです。知人がお父さんにそのわけを尋ねると「当たる数字だけが浮き上がって見える」と答えたそうです。彼はお役人だったので、自分の「超能力」をはっきり自覚してからはギャンブルに手を出さなかったということです。この話が事実かどうかはともかくとして、広い世の中にはもしかしたらそんな特殊な力を持っている人がいるのかもしれません。でも、人と違う能力というのはいわば諸刃の剣(本人にその気がなくても悪人に利用されたりとか・・・)なので、そんな能力があってもどうしても必要な時以外は隠して、普段は使わないだけの分別が必要だろうと思ったものでした。まあ、普通の人はそんな用心をする必要もないのですが。

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