就職活動と大学教育



 「失敗談を必ず聞く。失敗から学んでいるか、ストレス耐性があるかどうかを見る。」(NTTコミュニケーションズ) 「検定試験の得点より、異なった価値観にも溶け込んでゆけるかどうか重視している。ソリューション・ビジネスの比重が高まっており、学生時代に何をやり、自分だけの経験から何をつかんだのか、面接では提案力や思考力、適性などを見極めたい。」(NEC) 「ダメもとでアイデアをどんどん提案できる人がいい、学生時代に何に挑戦し、何を得たかを重視している。」(日本ガイシ) 「大学で学んだことを45分でプレゼンテーションさせた。」(日本IBM)

 以上は、昨年から今年にかけて新聞に載った企業の人事担当者の言葉である。こうした言葉から、現在および将来の日本社会が求めている人材像が浮かび上がってくる。これを見ると、10年前までのバブル期以前に企業が求めていた人材とはいかに違うかが分かるだろう。かつて企業が求めていたのは、あまり余計なことを考えず上司の指示にしたがう素直で元気な金太郎飴の学生であった。というのもその頃は、企業が省庁の規制の壁に守られて事業を行い、グローバルスタンダードもIT革命もなく、情報の透明性も問われず、護送船団方式の中で、横並び体質と問題先送り体質を維持できる時代だったからである。ちなみに、ここでいうグローバルスタンダードとは、アメリカニズムの世界化ということではない。それは組織内や身内だけで通用する価値基準ではなく、各々の組織を超えて通用する公共領域における価値基準であり、言い換えればフェアな競争環境の到来を意味している。雇われた方の個人もまた、一旦ある組織に所属すれば、終身雇用と年功序列の壁の中で守られていた。このように幾重にも壁に囲まれて過ごしてきた結果、過去の成功物語に安住し、互いに自己を検証することなく、外部からの批判は忌避し、つまりはチェック機能の喪失によって、多くの組織や集団は、曖昧な責任体制を引きずりつつ表面的な和を取り繕いながらも、内部から崩壊していったのである。現在では、そうした日本型システムはいたるところで破綻を招き、有効なリーダーシップを発揮できぬ日本は、自己決定能力が欠如しているとまで言われるようになった。外国人のカルロス・ゴーン氏を社長に招かざるを得なかった旧ニッサンの行き詰まりは、その象徴的な一例だといえるだろう。今、企業であれ省庁役所であれ、革新的であろうとする組織にとって、重要なキーワードは「創造的破壊」である。そのことは、組織自体の活性化にとって必要であるだけではなく、新たな価値の創出、新しい事業やビジネス・モデルの創造、あるいは新しい商品開発においても欠かすことはできない。

 そのような状況の中で、今、日本の社会が、学生に求め始めたのは、「学校歴」ではなく「学習歴」なのである。この場合の「学習」とは、従来の日本の学校教育が行ってきた、専門的な知識の詰め込みや与えられた課題や教師の要求にそつなく答えを出すこと、あるいはペーパーテストの成績だけを意味しない。むしろ、自分自身の関心を深く知り、あるいは状況に応じて必要な課題を探り出し、その関心や課題を追求するために情報を自分で収集・分析し、自分の頭で考えて自分自身の答や解決を導きだし、それを自分の言葉で表現できる能力の開発を意味している。いま社会は、大学に対して、教育の実質的な成果を求めるようになってきたといえるだろう。たしかに企業は、必ずしも各学部の提供する専門知識を直接必要としないかも知れない。しかし最近の企業は、その専門知識を獲得する際の学びの姿勢やプロセスに強い関心を寄せている。たとえば面接のときに必ずといってよいほど聞かれる質問の中に、最も関心のある問題は何か、演習で何を学んだか、演習における自分のテーマは何か、卒論の研究内容を説明せよ、などがある。ここで企業が見極めようとするのは、学生の関心の所在、自分の課題やテーマを見いだせるか、自分のテーマにどのように打ち込んだかというその姿勢なのである。自分が何をしたいのか、何ができるのか、ということに対する自己認識が明瞭でなければならないのである。

 現在の企業や役所は、自分が何をしたいのか、自分の関心の所在も分からない受動的な人間を望んではいない。したがって実際ある企業などは、いくら資格をもっていても、いくらTOECの点数がたとえ900点であっても、ただそれだけの人間は必要ないと考えている。企業や組織が求めているのは、単に「英語が出来る」人間ではなく、何かを「英語で出来る」人間なのである。いま求められているのは、上からの指示などなくても、自分から仕事内容を吟味し、その変更や改善を生産的に展開できる能力、チーム内の人々やユーザーに対して自分の意見を説得力をもって表現し得る能力、あるいは新たな事業や企画そのものを探し出し、立ち上げることのできる能力をもった人間、そして答のない困難な問題に取り組もうとする能動的・意欲的な人間なのである。

そうした人材の育成という観点から大学教育を考えれば、一回生の時から、演習形式の授業を積極的に取り入れるべきではないかと思う。扱うテーマは、できれば狭い専門の枠に閉じこもらず、現代社会が直面している様々な課題や問題を中心に据えることが望ましい。将来どんな職業に就こうが、社会への関心を深めることはきわめて重要だからである。ちなみに今の学生は意外なほど新聞を読んでいない。そしてこの場合の演習とは、一つのあるいは複数のテーマをめぐって、学生が発表し、学生が互いに自由に意見を述べ合うという授業形態である。ここで学生は、一つの事柄をめぐって他人が自分と違う意見を持っていること、一つのことをめぐって様々なものの見方があることを、理屈ではなく具体的に体験することになる。また自分の考えが反論された場合、それをあらためて主張してゆくとすれば、さらに考えを深め、その裏づけや論証のための勉強をさらに続けることになる。また、その学習の成果として、論文やレポートを作成することも重要である。こうした演習を通じて、学生は、課題発見能力、課題追求能力、情報分析能力、論理的思考力、問題解決能力、コミュニケーション能力、プレゼンテーション能力、文章表現能力の必要性に気づき、自らの能力の向上に努めるようになるだろう。またそれは、今後ますます必要とされる学習能力(learning ability)を養うことにもなる。今、求められているのはまさしく「行動する知性」(国際文化学部の標語の一つ)なのである。だが、そのような知的能力の養成は、本来、大学教育が担う領域ではなかっただろうか。そして今は、大学が本来の教育をしっかり行うことが、結果として就職活動の成果にもつながる時代になったといえよう。「自分の頭でものを考える能力を磨くこと、つまり本来の学生としての知的作業をしっかり行うことが、もっとも有効な就職対策となる」(清家篤氏)のである。

一昨年、松下電器の人事担当チーフの鍛冶舎氏が、大学教育に何を期待するかと質問に答えて、演習形式で学生をしっかり鍛えてもらいたいと強調していたことを思い出す。もはや多くの先進的な企業が学生に求めているのは、バブル期以前のように大学名ではなく、むしろ大学における学びの質なのである。 (内田正博) 2001年11月
 
※上記は「クーリエ」(大教センター発行)2001年4月号掲載の拙文「出口から見た大学教育」に加筆したもの。


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