2010年6月:一覧

34年目の夏に

 30年以上探していた曲をついに見つけました。以前このブログにも書いたことがあるのですが、私が初めて外国に行ったのは1976年夏のことで、ドイツのゲーテ・インスティトゥートで2ヶ月間ドイツ語講習を受けました。私はその時お酒やたばこを試してみたものでした。(アルコールは気に入りましたが、たばこは合わず、その後2度と口にしたことはありません。)そしてその夏、私は初めてディスコに行って踊ったのです。当時のドイツでものすごくヒットしているディスコミュージックがあり、ディスコにいくと必ずその曲がかかって若者たちが踊り狂っていました。英語の歌でしたが、私には歌詞が聞き取れずメロディーだけが頭の中で反響していました。

 日本に帰ってからその曲を探したのですが、日本では知られていなかったのか全く聞くことはなく、曲名がわからなかったので、その後2度と耳にすることがありませんでした。でも、私の中でその歌は、アルコール・たばこ・ディスコの狂乱と結びついた「青春の思い出」の曲となっていて、なんとかもう一度聞きたいと思っていました。

 昨日家族と話をしていて1970年代・80年代にとても有名だったアース・ウィンド・アンド・ファイアーというグループのことになりました。そして思いだせない曲名があるのでウェブで調べたりしました。その操作をしている時、私はやっとあの曲を「1976年」「ディスコ」「ヒット」というような項目で探せばいいことに気付いたのです。1時間ほどの試行錯誤ののち、ついにそれを探しあててダウンロードできました!西ドイツの黒人グループ・ボニーMの『ダディー・クール』でした。この曲は1976年にドイツなどヨーロッパで大ヒットしていたのです。

 今『ダディー・クール』を聴きながらこのブログを書いています。これを最初に耳にしてから34年目の夏がやってこようとしています。2010年の世界では音楽も人も変わってしまいました。

 ジョルジュ・サンド(1804-1876)、本名オーロール・デュパンは1804年パリに,名門貴族の血を引く父と小鳥屋の娘であった母との間に生まれた。一家はやがてフランスの中部、ベリー地方のノアンという所にある父方の祖母の館に住むことになったが、オーロールが4歳の時に父が落馬事故で死亡する。すぐに彼女を巡って母と祖母の葛藤が表面化し、最終的に養育権を得た祖母は、上流階級の娘にふさわしい教育を彼女に与えた。祖母の死後ノアンの館の跡取りとして残されたオーロールは、18歳の時に田舎貴族の青年と結婚して男爵夫人となった。夫婦はノアンに住んで一男一女をもうけるが、やがてその関係は冷却し,彼女はパリにいる年下の恋人のあとを追って花の都に出て作家修行を始めることになった。そして1832年、オーロール・デュドヴァン男爵夫人はジョルジュ・サンドという男性名で処女作『アンディアナ』を発表する。この小説はベストセラー、そのあとの作品も大評判となり、作者は男装の天才女性作家としていちやく注目の的となったのである。

彼女の華やかな恋愛遍歴のなかでも、ロマン派の詩人で年下のアルフレッド・ド・ミュッセとの有名な恋とその破局や彼らのヴェネチア旅行は映画化(『年下の人』)されるなどいまだに人々の興味をかき立てているが、ミュッセと別れたサンドはまもなくミシェル (1797-1853)と愛し合うようになった。ミシェル・ド・ブールジュというあだ名で呼ばれるルイ・クリゾストム・ミシェルは古都ブールジュの弁護士で、王政下のフランスにおける筋金入りの共和主義者であった。18344月にリヨンやパリなどの都市で暴動が起こり、大勢の人々が逮捕された。彼らの裁判が翌年行われ,当時の世論の大きな注目を集めたのだが、ミシェルはこの裁判の弁護人をつとめ、フランス中にその名をとどろかせたのである。1835年にふたりは巡り会い恋におちた。サンドと夫の泥沼の別居訴訟を勝利させ、彼女にノアンの館と子どもたちを取り戻させたのもミシェルであった。だが、既婚者であるミシェルとサンドの関係は紆余曲折ののち、1837年には終わってしまうのである。

1836年秋、フランツ・リストがサンドとフレデリック・ショパン(1810-1849)をひきあわせていた。フランス人を父にポーランド人を母に持つショパンは20歳の時に祖国を出て1832年頃からパリで活躍し始め、人々に知られるようになっていた。サンドと出会った当時の彼は作品を次々と世に出し、ピアノ教師としての評判も良く、経済的にも豊かであり、持ち前のセンスの良さと神経の細かい上品な振る舞いは彼をパリ社交界の花形にしていた。彼はその頃ポーランド人の若い令嬢マリア・ヴォジンスカに恋していた。サンドに初めて会った時の印象は悪く、虫の好かない女で本当に女性かどうか疑わしいとショパンは友人に感想をもらしている。だが、サンドのほうはこの天才音楽家に好意を持ち、リストらとともに彼をノアンに招いたが、彼はその申し出を断っている。ところが、翌年になるとマリアの家族の反対にあってショパンと彼女の婚約は破れてしまい、彼は失意に沈むこととなった。そして18384月、ひさしぶりに再会したサンドと彼は急速に親しくなり、間もなく恋人同士となった。34歳のサンドと28歳のショパン、フランスのみならずヨーロッパ中に知られたこのふたりの芸術家の恋は、ミュッセの時と同じく、パリ中の人々の興味を掻き立てることとなった。そして今回もサンドはフランス脱出を思い立ったのであるが、それにはもうひとつ大きな理由があった。それは溺愛する息子モーリスの健康であった。15歳の少年はひ弱で病気がちであり、医者はどこか暖かい地方での療養をすすめていたのだ。

いろいろな人から情報を集めたすえに、サンドは地中海に浮かぶスペイン領の小さな島マヨルカに行くことに決めた。183810月、子どもたちと使用人の女性ひとりを連れてパリをたち、南仏のペルピニャンに到着。彼らとは別にパリを出ていたショパンとおちあい、ともにスペインのバルセロナに向かう。バルセロナからは船でマヨルカ島のパルマに渡った。初めのうち島での生活は素晴らしかった。異国的な風景は一行の興味を掻き立てたし、暖かい気候はモーリスの体に合っていることもわかった。だが、少しずつ幻滅がやってくる。カトリックの信仰のあついこの地方の人々は,日曜日にも教会に行かない奇妙な異邦人たちを白い目で見始め、また結核にかかっているショパンの咳は彼らの恐怖を呼び起こすことになってしまったのである。パルマにいたたまれなくなったサンド一行は、町から離れたバルデモーサに移り住むようになる。これは以前修道院だった建物で,当時は政府のものとなって一般の人々に貸し出されている風情のある住居であった。ここでしばしの平和が訪れる。昼間サンドは子どもたちの勉強を見てやったり、天気のよいときはハイキングに出かけたりする。夜になると幻想小説『スピリディオン』執筆に没頭し、書き上げた原稿をせっせとパリの出版社に送る。いっぽうショパンのほうもフランスから送らせたピアノで作曲に励んだ。だが、マヨルカ島の湿気と島民の敵意が彼の健康に悪影響を及ぼしているのは明らかだった。そこで結局18392月に島をあとにしたのである。サンド一行はバルセロナ、マルセイユを経由して6月にノアンに帰り着いた。もちろんショパンもいっしょである。彼は秋まで滞在し、数々の曲を作り上げる。サンドのほうはマヨルカでの体験をもとにして1841年に『マヨルカの冬』という紀行文を発表した。1839年から46年までの毎年、1年のうちの何か月かをサンド親子といっしょにノアンで過ごすのがショパンの習慣となり、この年月は彼とサンドのどちらにとっても実り多い期間となったのであった。

ショパンとサンドの愛の崩壊の直接原因となったのはサンドの息子モーリスと娘ソランジュであった。モーリスはひ弱な体質で母に溺愛されていた。彼は芸術に志し、有名な画家ドラクロワに弟子入りしたが、画家となるには才能が欠けていた。それでもサンドは自分の本に息子の挿絵を入れたりして彼を援助してやるのである。サンドとショパンがマヨルカ島に出かけた時、モーリスは15歳、ソランジュは10歳であった。ショパンが恋人の子どもたちに好かれようといろいろ努力したので、ソランジュのほうはすぐに彼になついてピアノを教わったりするようになったのだが、難しい年頃のモーリスは、心の底では,自分から母を奪ったこの外国人を愛することができなかったようである。しかし、表面的にはショパンとモーリスはなんとかうまくやっていけたのであった。いっぽう、幼い時に父と別れ、個性の強い母や彼女の友人、とりまき、恋人たちの間で育ち、また母がひ弱でおとなしい兄モーリスを熱愛するのを見て育ったソランジュは、美しいけれど片意地な娘になっていった。

1845年、サンドは遠縁の娘で恵まれない境遇にあるオーギュスティーヌ・ブローを引き取った。やさしく気だてのいいオーギュスティーヌはサンドのお気に入りになり、22歳になっていたモーリスもすぐに彼女に夢中になった。ソランジュにとってはおもしろくない状況である。彼女はオーギュスティーヌに冷たくあたったが、それはモーリスを怒らせることになり、けんかが始まるとソランジュはショパンに泣きつくのであった。このようにサンドの家庭は、モーリスとオーギュスティーヌ、ソランジュとショパンのふたつのグループに分かれてしまった。成人したモーリスは少しずつながら公然とショパンをよそ者扱いするようになり、音楽家にとってノアンの雰囲気が変わってきたように思われた。1846年秋、ついにあやうい均衡が崩れる時がやってきた。モーリスがオーギュスティーヌを愛人にしたという噂がたち、そのことでショパンがモーリスをなじり、ふたりの間で口論がもちあがったのである。モーリスの態度や彼のほうに味方しているようなサンドに対してショパンは怒り、ノアンを立ち去った。サンドは彼を引き止めなかった。しばらく前から、この家庭内のごたごたでは彼女は息子の側につくようになっていたのである。サンドはパリに戻ったショパンとその後も文通を続けたが、彼らの関係は急速によそよそしいものとなっていった。

1847年春ソランジュは彫刻家ジャン・バティスト・クレザンジェと知り合い、ふたりはすぐに恋仲になった。サンドはこの少しあつかましいところのある若い男が気にいらなかったのだが、しぶしぶこのふたりの結婚を認めた。5月に結婚式が行われたが、7月にはクレザンジェと義兄のモーリスの間で大げんかが起こり、止めにはいったサンドに婿が手をあげる騒ぎとなった。サンドはソランジュと夫をノアンから追い出してしまう。パリにやってきたソランジュは、自分たちにたいする母の冷たい仕打ちをショパンに訴えた。彼女に同情した音楽家は何とか母と娘の間を取り持とうとするが、それはサンドと彼の間の溝を決定的にしただけだった。

18482月、パリで二月革命が勃発して七月王政が倒れ、第二共和制が始まる。3月、騒然とする首都で、もう交渉も途絶えていたショパンとサンドは偶然出会った。ふたりは礼儀正しく挨拶し、そのあと、ソランジュに子どもが生まれたことをショパンはサンドに告げたのだった。この短い出会いが昔の恋人たちの最後の別れとなる。18484月にショパンはイギリスに渡った。だが、結核が悪化していた彼にはそこでの生活はつらいものとなった。そして11月にパリに帰ってきたのだが、彼の健康はもう衰えていくのみであり、翌18491017日、ショパンは息を引き取った。ソランジュはこの音楽家の最期を看取った人たちのひとりであった。1030日にパリで行われた葬儀にサンドが出席することはなかった。

1848年の二月革命はサンドを熱狂させたが、政治の流れはすぐに彼女の期待を裏切ることとなり、5月のクーデター失敗のあと同志たちは次々に投獄され、彼女もノアンに閉じこもって息をひそめていなくてはならなくなった。この時期に書かれたのが彼女の代表作のひとつ『愛の妖精』である。のどかな田園を舞台にしたういういしい恋物語であるこの小説は,長年持ち続けた理想の挫折にうちひしがれたサンドの、心の平安を素朴な農村生活に求める悲痛な試みだったのである。

1862年、38歳になっていたモーリスが結婚した。ふたりのかわいい孫娘に恵まれたサンドは、小説、戯曲、エッセーなどの他、子どもたちのための童話も書くようになった。死の直前まで執筆を続けたサンドが病気で没したのは1876年のことである。610日の葬儀では、この偉大な女性のためにヴィクトル・ユゴーによって書かれた弔辞が読み上げられた。彼女は短編を含む約70編の小説、30編ほどの劇作、多数のエッセーや評論を残したのであった。

 

参考文献

坂本千代『ジョルジュ・サンド』(清水書院、1997)、小沼ますみ『ショパンとサンド』(音楽之友社、1982)、シルヴィ・ドレーグ=モワン『ノアンのショパンとサンド』(音楽之友社、1992



初出:神戸大コミュニティーコンサートVol.7「ピアノwithドラマリーディング ショパンとジョルジュ・サンド」のリーフレットに掲載 (2007.12.9)

 

エッセーなど

 雑誌や各種パンフレット用に執筆したエッセー・記事など。

 

・「ドラクロワ、ショパン、サンド(2009.5)

・「サンド、ショパン、そしてミシェル(2007.12.9)

・「私の震災体験(1998.1.17)

今更ながら

 今更ながら『ノルウェイの森』を読んでみました。1987年刊のこのベストセラー小説にあまり興味はなかったのですが、最近読んだ村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』がおもしろかったので、この小説も買ってみました。でも、私にとってこれは「はずれ」でした。柴田翔の『されどわれらが日々』と堀辰雄の『風立ちぬ』を足して2で割って、エリック・シーガルの『ラブ・ストーリー』で味付けしたような作品だなという印象で、何がおもしろいのかさっぱりわかりませんでした。この本があれほど評判になったというのは信じられない感じです。でも、これは作品を読む時期によるかもしれない、とも思います。多感な10代前半くらいに読んでいたら、もしかしたら私もものすごく感動していたかもしれません。
 20代初めのころ、必要に迫られてフローベールの『ボヴァリー夫人』を読みました。夢見がちな少女だった主人公が平凡な結婚生活に退屈して欲求不満で浮気を繰り返し、夫に隠れて借金漬けになったあげく服毒自殺してしまうというこの小説のいったいどこが優れているのか、と非常に疑問に思ったものでした。ところが20年以上あとになって読み返してみると、これが実におもしろいのです。メインストーリーはともかくとしても、主人公たちの造形や細部の描写や脇役などが実にうまく、「何も起こらない」田舎の生活でヒロインがいかに退屈し、自分の生活に絶望していたかが非常によく理解できたのです。
 読者のそれまでの経験や、人生に対する身構え方や、未来に対する希望や予想によっても文学作品に対する評価は変わってくるのですね。

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