2020年6月アーカイブ


 近年、音楽を論じる学界の世界的な動向として、環境や紛争に関する話題を取り上げることが増えている。たとえば、2021年に開催予定の国際伝統音楽学会International Council for Traditional Musicの第46回世界大会では、発表テーマの一つに "Ecomusicologies and Ecochoreologies: Sound, Movement, Environment"(エコ音楽学とエコ舞踊学:音、動き、環境)を掲げている。また、2018年に開かれた同学会の分科会・東アジア音楽研究会(Study group on Musics of East Asia)のシンポジウムでも同様に

 "Ecological Habitus of Music and Dance"(音楽と舞踊の環境に関わる慣習)がテーマの一つであった。さらに遡り、2016年にはCurrent Directions in Ecomusicology: Music, Culture, Nature (エコ音楽学の現在の動向:音楽、文化、自然)という論文集も発行されている(Allen, Dawe共編著、Taylor & Francis)。Ecomusicologyecology(生態学)とmusicology(音楽学)の合成語で、一般の辞書には出て来ない単語だが、ここ10年でエコロジー的視点による音楽の議論は一気に活性化した感がある。その背景には、自然破壊による楽器材料の減少や劣化、紛争や災害による音楽を支える共同体そのものの崩壊の危機などがある。

 Ecomusicologyの意味するところは実際にはかなり広範で、右のCurrent Directions in Ecomusicologyの中には、自然と人間との関係を思索する哲学的アプローチ、人間を取り巻く社会環境と音楽のあり方や音楽の概念を論じるもの、自然の素材との対話から生まれる音楽的美意識を扱うものなど、多様な視点の論文が含まれている。その中で私が注目したのは、編者の一人Daweが寄稿した、"Materials matter: towards a political ecology of musical instrument making"(材料が問題(重要)だ:楽器作りのポリティカル・エコロジーに向けて)という論文である。この論文では、手作りでギターを製作する職人の事例が報告されていて、手の感触や耳を通して材質と対話していく職人の繊細な感覚的作業が描かれると同時に、できるだけ環境にやさしい方法で材料を集めるというこの職人のポリシーが紹介されている。「材料が問題だ」とわざわざDaweがタイトルで強調している理由は、これまでの音楽研究は、音楽様式の分析や、何をもって「美」とするかという美学的な研究には膨大な蓄積があるのに比べ、楽器の材料という物理的、あるいは形而下学的側面に着目した研究があまりないことにあるように思われる。'political ecology'ということばも耳慣れないが、同書の巻末の用語解説によれば、「資源、物質的環境の問題と人間の社会システムとの関係を批判的に考察する複合的な研究」とある。「ポリティカル」は通常「政治的」と訳されるが、ここでは環境・社会・人間の関連について批判的(反省的)な視点を持ち、あるポリシーに基づいて行動することを意味しているように思われる。ギター職人の事例に即していえば、自然にやさしく上質な材質にこだわり、丁寧に楽器を仕上げていく姿勢が、あるポリシーに基づいたエコロジカルな行動、つまり'political ecology' の実践に当る、ということなのだろう。

 翻って、日本の伝統楽器の製作は大きな困難に直面している。特に三味線や箏のバチ、コマ、柱の材料となる象牙、鼈甲などは元来輸入品で、これらの動物が絶滅危惧種となった現在では輸入が困難である。しかし、植物由来で国内調達が可能な篳篥の盧舌も安泰とは言えない。鵜殿の葭は千年以上の時間をかけて、楽人と楽器職人が磨いてきた美意識によって選ばれた素材であり、そのような葭が生育できる環境は、さらに途方もない長い時間をかけて自然と人が創り出してきたものである。その環境を維持するにはどうしたらよいのか。個人的には、良質な葭の産地として皇室の御料にして保護したらどうかなどと妄想するが、現実的には、地元の方々との協力を軸に、外部のより多くの人を巻き込んで、今の環境がこれ以上悪くならないように活動して行くことが重要であろう。それこそ「ポリティカル(政治的)」な戦略も使いつつ、貴重な環境を守り、後世に雅楽の豊かな音色を遺していかなければならない。

『雅楽だより』(雅楽協議会発行)61号(2020年4月1日発行)pp. 8-9掲載

 

復元という創造〜芝祐靖氏の遺したもの

        (国立劇場 第85回雅楽公演「雅楽 アジアの響き」(2019.11.9)原稿)


 「復元」とは失われたもの、あるいは変化したものを「元の形に復する」行為、あるいはその結果のことである。発せられた瞬間に消える時間芸術である音楽において、録音技術が生まれる以前は、厳密な意味で、過去の音楽を保存・再生することは不可能であった。しかしだからこそ好奇心は刺激される。その音楽は昔どんなふうに響いていたのか。たとえば、奈良時代や平安時代の雅楽は、しばしば「天平の響き」や「源氏物語の音楽」などのキャッチコピーとともに、人々の想像やロマンをかき立て、復元の対象となってきた。

 ただし、一旦廃絶した音楽の復元は容易ではない。古譜に記された記号の連なりは旋律の骨格を示すだけで、各楽器の当時の演奏の実態はわからない。この骨格をもとに、観客が聴いて「おもしろい」と感じる音楽を創るには、古譜には書かれていない様々な「肉付け」を行わなければならない。その意味で、音楽における復元作業は、現代の音楽家による過去の伝承の創造的解釈であり、さらに、その解釈の結果は一つではなく、復元者の立場や方針により複数存在する。

 国立劇場が、雅楽の復元演奏に取り組み始めたのは1975年である。この年、第一回「管」公演「正倉院と雅楽の管」(〈元歌〉〈蘇莫者〉上演)と第一九回雅楽公演「舞楽 大曲と稀曲の再興」(〈蘇合香〉〈河南浦〉上演)が催された。以来、〈盤渉参軍〉、〈団乱旋〉、〈獅子・狛犬〉、〈曹娘褌脱〉、敦煌琵琶譜の諸曲、〈鳥歌萬歳楽〉、〈番假崇〉、〈玉樹後庭花〉、〈陵王荒序〉、〈皇帝破陣楽〉など、さまざまな楽曲が国立劇場の舞台で現代に甦った。初期のものを除いて、ほとんどの復元を担当し、「復元雅楽」という一分野を開拓したのが、本年7月に亡くなった芝祐靖氏(1935〜2019)である。芝氏は自身の復元作業が、厳密な意味で「復元」ではないことをよく自覚していて、復元曲CDの解説で次のように述べている。

 さまざまな音移行と跳躍音型、そしてフレージングなど、手探りで不安の多い作業ですが、その中から古さばかりでなく、思いもかけない新鮮なメロディーの出現に驚かされることもあります。

 琵琶の訥々とした音型から旋律を探る作業、そしてその中から出現した旋律を合奏へと展開する作業、つまりオーケストレーションの過程でも、つねに創造/想像的な判断が求められます。この敦煌琵琶譜を音楽として甦らせるために、私自身の雅楽の経験を元に創意工夫を加え、作品として仕上げました。(CD『芝祐靖の音楽 復元正倉院楽器のための敦煌琵琶譜による音楽』2011)

 ここで芝氏は、古譜と向き合う中で、思いがけず新鮮な旋律に出会うことがあること、また、それを最終的な合奏形態へと展開する作業で、それまでの自身の雅楽の経験を活かして創意工夫を加えていることを明かしている。つまり、芝氏にとっての復元作業は、現在のみずからの経験と想像力にもとづいた過去の解釈作業に他ならず、きわめて創造的な営為なのである。また、その解釈には、一つではなくいくつかの異なる可能性があることも実際に示している。たとえば、本公演でも演奏される〈番假崇〉に対して、琵琶独奏、現在の唐楽様式の合奏、復元された正倉院楽器のための合奏、の三種類の解釈(編曲)を遺している(CD『甦る古代の響き 天平琵琶譜「番假崇」』一九九九)

 音楽の復元には決まった答えがない。しかしだからこそ魅力的である。芝氏が築いた「復元雅楽」というジャンルは、古典雅楽や現代作曲家による新作雅楽とともに、雅楽の世界を今後も豊かに彩っていくに違いない。

(公演当日のパフレットとは一部の記号、フォント、レイアウトなどが異なります)