2008年6月:一覧
人間は楽なほうに染まっていくため、高校時代「校風の典型」と言われた私ではありますが、母校のモットーだった「質実剛健」は今となってはその片鱗もからだの中には残ってなさそうです。
高校生の頃はちょっと窮屈でしたが、今になって思うと、外にいろいろ規制があるからこそたいていの人間は「自由」とか「独立」とか「自分らしさ」などについて真剣に考えるのではないでしょうか。最初からそういうものが揃っていて、それがあるのがあたりまえであったら、それらについて考えたり、あるいはそれらを手に入れるための努力をすることもないでしょう。「Easy come, easy go.」と言いますが、自分で苦労して手にいれたものでないと、気づかないうちになくしてしまったりすることもありそうです。
ミシュレのジャンヌ・ダルク像、とりわけ彼女が受けた啓示と彼女にまつわる奇跡がどのように取り扱われているかを検討するため、ラルースの『19世紀
大辞典』のジャンヌに関する項目およびエルネスト・ラヴィス編『フランス史』中のジャンヌに関する記述とミシュレのそれを比較する。
ジャンヌの受けた啓示やその解釈・取り扱い方に関して、科学のがわに立って超自然的・神秘的なものを徹底的に排除しようとしながらもそれ
らを完全に無視することができなかったラルース『19世紀大辞典』や、それらをほとんど問題にもしないラヴィスの『フランス史』と比べると、ミシュレの
ジャンヌ像には多分に彼のロマン主義的傾向が見られる。ミシュレの『フランス史』においてジャンヌはフランス民衆精神の化身とみなされており、その民衆
(Peuple)はやがて彼の中でキリストの姿を取るようになっていく。このようにして、ミシュレもまたカトリシスムに代わる新しい宗教を追究していった
のである。
ミシュレの著作におけるジャンヌ・ダルク像生成のプロセスを概観したあと、彼の『民衆』(1861年刊)に現れる「民衆」および「祖国」の概念とジャンヌ像との関係を検討する。
『民衆』においてミシュレは1840年代のフランス社会の危機を分析して、その遠因のひとつはフランス人たちが熱狂的な心と博愛の精神を
失ってしまったことにあると考える。そして彼は民衆の活動的な本能の中にある豊かなものを再認識しなくてはならないと言う。彼によれば、年老いて硬直状態
に陥っているブルジョワジーは民衆と交わることによってのみ若さを取り戻すことができるのである。ブルジョワジーと民衆が協力すれば社会を調和のとれた生
産的なものにすることができるというのがミシュレの主張である。彼はまた、フランス人たちが初めて自らのアイデンティティを持ったのはジャンヌ・ダルクに
よってであると言う。彼女は「天才」であったと同時に15世紀フランス民衆精神の化身であり、「民衆」「女」「子ども」という虐げられた人々の夢と願望と
理想を完璧に体現していたのである。
本論はミシュレの『フランス史』第5巻中のジャンヌ・ダルクにかんする部分、単行本『ジャンヌ・ダルク』『革命の女たち』『虫』『女』および『魔女』を取りあげ、彼の女性観、とりわけその「女性メシア論」とでも名付けうるような女性論の形成をあとづける。
愛にみちたイマジネーションの力で「神」を創造してその司祭となり、あわれみとやさしさによって人々を結び合わせ、そして新しい社会をもた
らすメシアとしての女。ジャンヌの場合は祖国というものをもたらし、魔女の場合はルネッサンスとその延長線上にあるフランス革命をもたらした。民衆の女と
いう最下層の被搾取者たちの間から出て、敵方からは魔女とみなされたジャンヌのイメージは『革命の女たち』『虫』『女』等の作品を経て、作者ミシュレの中
でだんだんと魔女のそれへと進化していったのであった。
マリー・ダグー伯爵夫人(筆名ダニエル・ステルン)が1848年に発表した『共和主義者の手紙』、とりわけその中のラマルティーヌ、カヴェニャック、
ルイ・ナポレオン・ボナパルトという3人の政治家にかんする部分およびフランス女性にたいする呼びかけの部分を検討することによって、1789年の革命、
1848年の二月革命、そして「女性」についての彼女の考え方をあきらかにする。マリー・ダグーは二月革命当初、臨時政府の中心人物であったラマルティー
ヌを崇拝していたが、やがてカヴェニャック将軍支持にまわった。ルイ・ボナパルトに不信感を持ち、政治家たちの無能さに危機感を覚えた彼女は、1848年
12月の初代大統領選挙直前に、選挙権を持たぬフランスの女性たちに呼びかけ、彼女らの「女の力」によって社会状況を変えようと訴えた。この呼びかけはロ
マン主義的な「女性メシア論」の流れをくむものであるといえよう。
ロマン主義時代とそれに続く時期の有名人であったマリー・ダグー伯爵夫人の半生を,特にフランツ・リストとの関わりに注目しながらたどったあと、彼と の恋を下敷きにした長編小説『ネリダ』を取り上げ、不評を買ったこの小説中の事実とフィクションのからみあいを検討し,主人公ふたりにどの程度彼女とリス トの姿が描き込まれているのか、当時大きな議論を巻き起こしていたサン・シモン主義者たちやフェリシテ・ドラムネなどの思想をこの作品がどのように反映し ているか、また彼女の生涯においてこの作品はどのような意味を持っていたのかについて明らかにする。
-「ジョルジュ・サンドにおけるprogrès continuの思想の研究ーSpiridionを中心として」『フランス語フランス文学研究』49号、1986年、日本フランス語フランス文学会、pp.20-29
サンドがピエール・ルルーの影響のもとにいかなる宗教思想を持つようになったかをキーワードprogrès continuを通して検討する。ルルーは人間の歴史を人類の前進あるいは発達の表現であるとみなした。「進歩」というのはより良い未来にむかっての必然 的な過程であると同時に、意識的な前進の努力であるとも考えていた。ルルーはこのたえまない進歩という考え方を彼独自の転生説と結びつけている。サンドは1836年頃からルルーの思想に傾倒し、39年に宗教小説『スピリディオン』を発表した。この小説の3人の修道士たちは多くの試 行錯誤を繰り返したあとにキリスト教を否定してしまい、最終的にたどりついたのがprogrès continuの思想であったという設定である。サンド自身も晩年にいたるまでこの信仰を持ち続け、その痕跡はさまざまな作品の中に見ることができるので あるが、『スピリディオン』こそはルルーに心酔した彼女のユマニタリスム的傾向の小説の第1作であり、progrès continuの思想を忠実に小説化したものである。
-「ジョルジュ・サンドの作品における超自然現象ー『緑の貴婦人たち』を中心として」『近代』64号、1988年、神戸大学『近代』発行会、pp.85-96
サンドが1857年に発表した小説『緑の貴婦人たち』は舞台をアンジュー地方の古い貴族の館にとって、遺産相続をめぐる訴訟と、その館にまつわる幽霊 伝説を題材にしたものである。この作品における超自然現象に焦点を絞り、「超自然的な美」、それに触発されて起こる「崇高な狂気」およびそれからの「治 癒」について、彼女の30代の作品『スピリディオン』や『コンスエロ』と比べつつ考察する。『緑の貴婦人たち』では最終的にすべての超自然現象が否定されてはいるが、それらが引き起こした愛の奇跡は「実利的な世界」のただなかにあって変わ ることなく続いているといえよう。また、緑の貴婦人は物質世界のかなたにある永遠の理想の象徴であるとも解釈できるであろうが、小説の結末は(二月革命以 前にルルーの影響下にあったサンドが社会レベル・人類レベルでの実現を夢見ていたのとは対照的に)個人生活のレベルにおけるこの理想と現実の融合を示して いるのである。
-「La Terreur et l'image de Robespierre chez George Sand」(仏語論文)『近代』66号、1989年、神戸大学『近代』発行会、pp.1-10
1872年にサンドが発表した『ナノン』は最晩年の作者の革命観をあらわしたものであり、貧農の娘ナノンと見習い修道士エミリアンがフランス革命の嵐 に翻弄される物語である。この小説の主要登場人物のひとりであるコストジューは正直で理想に燃える弁護士であるが、革命の際にジャコバン派とロベスピエー ルの考えに共鳴し、やがて反対派を次々にギロチンに送らなければならなくなる。小説中で革命時代の農民の理想化された姿をとる主人公ナノンは、コスト ジューおよびロベスピエールをきびしく批判する。若い頃サンドが急進派の弁護士ミシェル・ド・ブールジュの影響で共和主義者となりロベスピエールを崇拝するようになったことを当時の書簡 等が明らかにしている。だが、二月革命とその挫折は、革命とそれにともなう暴力についての彼女の考えを変えさせることになった。しかし、それでもなお彼女 は社会改革にたいする熱意を生涯持ち続け、「決してテロリストにならず」ねばり強く辛抱強い革命家になろうとしたのであった。
-「George Sand et le catholicisme」(仏語論文)『論集』44号、1989年、神戸大学教養部、pp.27-49
サンドの自伝『我が生涯の物語』を読む者はだれでも『スピリディオン』の主人公スピリディオンとアレクシの宗教的遍歴に作者自身のそれの反映が見られ ることに気づく。本論文ではサンドの宗教思想の変遷と『スピリディオン』の物語の展開とを比較検討する。まずサンドのおいたちと彼女が受けた宗教教育につ いて調べ、彼女の宗教思想における大きな転換点となった「聖職者の権威にたいする疑問」を考察し、それの発展である「カトリシスムの形骸化と聖職者の堕 落」という彼女のカトリシスム批判を検討する。そのあと彼女のカトリシスムからの離脱および政治・社会問題への開眼にいたる過程を調べ、最後に当時の有名 な宗教改革家フェリシテ・ラムネの影響について考える。1835年からの数年間サンドは彼と親しく交際し、彼の反法王庁的で急進的な宗教思想は彼女に『マ ルシへの手紙』を書かせ、またルルーの「人類教」へと彼女をむかわせることとなったのである。-「Jeanne d'Arc : son interprétation au XIXe siècle par Michelet, Renan et G.Sand」(仏語論文)『論集』48号、1991年、神戸大学教養部、pp.93-115
ミシュレの歴史書『ジャンヌ・ダルク』、エルネスト・ルナンのエッセー『ケルト民族のポエジー』およびサンドの小説『ジャンヌ』の分析を通して、19 世紀フランスにおけるジャンヌ・ダルク像を検討する。ミシュレはジャンヌを15世紀フランス民衆精神の化身であり「キリスト」の再来であったとのべ、彼女 を中世と近世の境に位置づける。ミシュレの『フランス史』を愛読していたサンドは、ジャンヌ・ダルクを19世紀に移しかえた小説『ジャンヌ』を書き、フラ ンスの農村に生き残る伝統文化を守るために当時の都市的・金権的社会の中で傷つき死んでいくヒロインを作り出した。思想家ルナンは、ジャンヌ・ダルクの生 涯と伝説の中にケルト的伝統のなごりを認め、ジャンヌの信仰はキリスト教的であるというよりケルト的であったと結論する。このように、ロマン主義の時代は それまでには見られなかった新しいジャンヌ伝説を生みだしたのであった。-「ロマン主義的女性像ー女の神話と女祭司のイメージ」『近代』78号、1995年、神戸大学『近代』発行会、pp.275-289
4世紀に生まれ19世紀に再び盛んになったマリア信仰において、彼女は2つの一見矛盾した性格を持っている。それは母および処女としてのマリアであ る。そしてこれらは2つの女の神話(「神と男たちのあいだの仲介者としての女性」および「打ち負かされざる処女」)としっかり結びついている。サンドの作 品の中では『コンスエロ』『捨て子のフランソワ』『モープラ』『緑の貴婦人たち』が神(あるいは超自然的な力)と男たちのあいだの仲介者としての女の神話 の系列に属している。一方、彼女の『ガブリエル』や『ジャンヌ』は打ち負かされざる処女神話の系列に属し、特に『ジャンヌ』のヒロインには「処女祭司」の イメージが重ねられている。これはロマン派の作家たちが好んだ「聖なる女性」のヴァリエーションである。サンド、シャトーブリアン、ミシュレらの作品には 女祭司や修道女など、所有することのかなわぬ聖なる女性のイメージがしばしば現れる。彼女らの物語はたいてい(マリアのように)神と男たちの仲介者として の女性の神話または打ち負かされざる処女の神話のいずれか、あるいはそれらの両方に属しているのである。-「宗教的コミュニケーションに関する一考察ーサンドの『コンスエロ』におけるコミュニオンをめぐって」『国際文化学研究』10号、1998年、神戸大学国際文化学部、pp.43-59
ピエール・ルルーはボヘミアのフス派キリスト教徒、とりわけターボル派の運動の中に、強大な隣国に迫害されるボヘミアの人々の独立と絶対的な平等の希 求を認めた。当時サンドはルルーの「福音」をひろめるために働いていたが、その成果が『コンスエロ』である。彼女はこの小説の中でフス戦争とフス信徒たち の教義、とくに彼らの「両形色による聖体拝領」(注)に関する問題を取り上げている。サンドによれば、宗教的熱情と結びついた平等の希求と愛国心によって ボヘミアの人々は新しい社会を築くことができたのであり、その運動を象徴するのが彼らのコミュニオンであった。しかしながら、この新社会は神聖ローマ帝国 とカトリック教会によって押しつぶされる運命にあった。『コンスエロ』執筆当時のサンドにとって宗教的真理、哲学的真理、政治的理想は同じものであった。 宗教的であると同時に非常に政治的な意味合いの強いフス信徒たちのコミュニオンは彼女にとって非常に興味深いテーマだったのである。 (注):カトリックのミサ典礼ではキリストの聖体拝領(コミュニオン)のパンとぶどう酒のうち、ミサを行う司祭はその両方を口にするが、信者のほうはパン のみを受けることになっている。これに関して、キリストの聖体拝領にはパンとぶどう酒両方を信者も受けるべきである(両形色による聖体拝領)と主張する人 々がいた。この意見は少数派であったが、ボヘミアのフス派はこちらに与したのである。-「George Sand et le Japon」(仏語論文)『Les Amis de George Sand』22号、2000年、Association Les Amis de George Sand、pp.52-60
1912年に始まるサンドおよび彼女の作品の日本での紹介の歴史を概観したのち、我が国において現在にいたるまでに発表されたサンド関係の論文につい て調べたもの。1946年から1999年までに日本で発表された論文は約90本。それらのうち数が多いのが次のものである。1)サンドの田園小説に関する もの、2)彼女の宗教思想や社会思想に関するもの、3)彼女と二月革命に関するもの、4)彼女の童話に関するもの。これら4つのグループの代表的な論文の 紹介と解説を行い、最後に1999年までに日本で出版されたおもなサンド作品の翻訳および伝記のリストをつけている。-「ジョルジュ・サンド作『コンスエロ』論考ーアルベール=ジシュカ=サタンについて」『国際文化学研究』19号、2003年、神戸大学国際文化学部、pp.1-15
『コンスエロ』『ルドルシュタット伯爵夫人』に登場するアルベール・ド・ルドルシュタットはサンドの生み出した人物たちの中でも最も奇妙な、だがある
意味では最も正統的なロマン主義的ヒーローであろう。『コンスエロ』におけるアルベールはボヘミアのフス派の狂信者ジシュカやサタンのイメージを背負った
エクセントリックな超能力者であると同時に敬虔な音楽家であるとされている。このアルベール像を詳しく検討することによって、『コンスエロ』執筆当時
(1838-39年)のサンドの美意識や、ロマン主義的サタン像の一例でもあるこの登場人物の特徴を明らかにする。
-「ジョルジュ・サンドの芸術観ー『わが生涯の記』『デゼルトの城』『ファヴィラ先生』におけるモーツァルト」『近代』95号、2005年、神戸大学近代発行会、pp.107-121
サンドの『書簡集』や『わが生涯の記』を読めば、彼女がどれほどモーツァルトに心酔していたかがよくわかる。本稿ではサンドの持っていたモーツァルト のイメージや彼の音楽についての意見、彼女の芸術観、理想の芸術家像およびそれらがサンド作品中にどのように反映しているかを見るため、『わが生涯の記』 『デゼルトの城』『ファヴィラ先生』の中でこの作曲家の名前が出てくる部分を詳しく検討している。- 「Destins de La Mare au Diable et de La Petite Fadette au Japon」(仏語論文)『La lettre d'Ars』43号、2007年、Le Château d'Ars, Centre du Romantisme、pp.3-6
1912年に日本最初のサンドの単行本となったLa Mare au Diable (『魔ケ沼』)の翻訳の歴史は、付録部分および最初の2章を訳すかどうかの問題や、長い絶版期間など紆余曲折している。それとは対照的に、30以上の翻訳 がありコンスタントに読まれているLa Petite Fadette はその日本語題名(『愛の妖精』)とともに1936年刊の岩波文庫の宮崎嶺雄訳が定番となっている。これらふたつのサンドの代表的田園小説の日本における 受容の歴史および翻訳形態を詳しく検討する。-「La Mare au Diable de George Sand au Japon」(仏語論文)『国際文化学研究』29号、2007年、神戸大学大学院国際文化学研究科、pp.1-13
サンドの日本における最初の翻訳(単行本)は1912年の『魔ケ沼』である。この田園小説は現在までに11の翻訳を生み出している。これらの訳文、訳 者による注、前書き、あとがきなどを検討することによって次の3点を明らかにした。(1)なぜこの作品が日本におけるサンドの最初の翻訳小説となったの か。(2)この小説の「付録」の取り扱いにさいして、どのような要因が作用したのか。(3)太平洋戦争後の当用漢字・現代かなづかい制定がこれらの翻訳に 及ぼした影響。-「マリー・ダグー伯爵夫人の生涯と作品ー小説『ネリダ』における事実とフィクション」『女性学研究』15号、2008年、大阪府立大学女性学研究センター、pp.1-20
-「マリー・ダグーと二月革命ー『共和主義者の手紙』をめぐって」『国際文化学研究』17号、2002年、神戸大学国際文化学部紀要、pp.67-84
-「ミシュレの女性メシア論ージャンヌ・ダルクから魔女へ」『近代』76号、1994年、神戸大学『近代』発行会、pp.65-79
-「Jeanne d'Arc et "Le Peuple" de Michelet」(仏語論文)『論集』50号、1992年、神戸大学教養部紀要、pp.19-30
-「ジョルジュ・サンドの『ガブリエル』と教育の問題」『国際文化学研究』第53号、2019年、神戸大学大学院国際文化学研究科、pp.53-69
-「ジョルジュ・サンドの『ナノン』における旅と革命」『国際文化学研究』第49号、2017年、神戸大学大学院国際文化学研究科、pp.51-66
-「サンド『ルードルシュタット伯爵夫人』における秘密結社とフランス革命」『国際文化学研究』第48号、2017年、神戸大学大学院国際文化学研究科、pp.111-127
-「声をめぐる考察 ー『歌姫コンシュエロ』のウィーンへの旅」『国際文化学研究』第45号、2015年、神戸大学大学院国際文化学研究科、pp.55-68
-「サンド『旅人の手紙』第1・第2・第3信について」『国際文化学研究』第44号、2015年、神戸大学大学院国際文化学研究科、pp.79-93
-「サンドの『ジャンヌ』を境界の物語として読む」『近代』104号、2010年、神戸大学近代発行会、pp.1-14
-「ジョルジュ・サンドとフランツ・リスト ー 2通の『旅人の手紙』をめぐって『近代』102号、2009年、神戸大学近代発行会、pp.1-13
- 「Le Théâtre fantastique au château d'Ionis dans Les Dames verte」(仏語論文)『国際文化学研究』33号、2009年、神戸大学大学院国際文化学研究科、pp.1-10
- 「ジョルジュ・サンドの作品における音楽家像とユートピア思想」『国際文化学研究』32号、2009年、神戸大学大学院国際文化学研究科、pp.1-13
-「ジョルジュ・サンドと芸術家たち ー ベートーヴェンとショパン『近代』101号、2009年、神戸大学近代発行会、pp.1-18
- 「La Mare au Diable de George Sand au Japon」(仏語論文)『国際文化学研究』29号、2007年、神戸大学大学院国際文化学研究科、pp.1-13
-
「Destins de La Mare au Diable et de La Petite Fadette au
Japon」(仏語論文)『La lettre d'Ars』43号、2007年、Le Château d'Ars, Centre du
Romantisme、pp.3-6
-「ジョルジュ・サンドの芸術観 ー 『わが生涯の記』『デゼルトの城』『ファヴィラ先生』におけるモーツァルト」『近代』95号、2005年、神戸大学近代発行会、pp.107-121
-「ジョルジュ・サンド作『コンスエロ』論考 ー アルベール=ジシュカ=サタンについて」『国際文化学研究』19号、2003年、神戸大学国際文化学部、pp.1-15
-「George Sand et le Japon」(仏語論文)『Les Amis de George Sand』22号、2000年、Association Les Amis de George Sand、pp.52-60
-「宗教的コミュニケーションに関する一考察 ー サンドの『コンスエロ』におけるコミュニオンをめぐって」『国際文化学研究』10号、1998年、神戸大学国際文化学部、pp.43-59
-「ロマン主義的女性像 ー 女の神話と女祭司のイメージ」『近代』78号、1995年、神戸大学『近代』発行会、pp.275-289
-「Jeanne d'Arc : son interprétation au XIXe siècle par Michelet, Renan et G.Sand」(仏語論文)『論集』48号、1991年、神戸大学教養部、pp.93-115
-「George Sand et le catholicisme」(仏語論文)『論集』44号、1989年、神戸大学教養部、pp.27-49
-「La Terreur et l'image de Robespierre chez George Sand」(仏語論文)『近代』66号、1989年、神戸大学『近代』発行会、pp.1-10
-「ジョルジュ・サンドの作品における超自然現象 ー 『緑の貴婦人たち』を中心として」『近代』64号、1988年、神戸大学『近代』発行会、pp.85-96
-「ジョルジュ・サンドにおけるprogrès continuの思想の研究 ー Spiridionを中心として」『フランス語フランス文学研究』49号、1986年、日本フランス語フランス文学会、pp.20-29
6月は毎年、とても慌ただしく体調も不良です。7月になると元気になるのですが。夏生まれ(8月)のせいかもしれません。
-Consuelo(1842-43年刊)『歌姫コンシュエロ』(藤原書店、2008年刊)
この小説と続編『ルドルシュタット伯爵夫人』をサンドの代表作と考える研究者は多いが、彼女の田園小説とは違い、毀誉褒貶の激しい作品である。18世紀ヨーロッパを舞台に、天才歌手コンシュエロの愛と冒険を描き、音楽家や政治家など当時の実在の人物と架空の主役たちをからませ、また、オカルト的趣向のもとに15世紀のフス戦争の時代と18世紀のボヘミアを結びつけたゴシックロマンスの要素をも備えた音楽小説。あらすじは次のようなものである。18世紀中葉のヴェネチアで大作曲家ポルポラに見出された少女コンシュエロは、オペラ界にデビューするが、テノール歌手アンゾレトとの恋に破れてイタリアを去る。師ポルポラの養女となった彼女はボヘミアのルドルシュタット伯爵邸に招かれて、伯爵の息子アルベールの婚約者アメリーの音楽教師となる。アルベールはコンシュエロに恋するようになるが、彼女はボヘミアを去ってウィーンに向かい、そこでポルポラと再会する。マリア・テレジア女帝の支配するウィーンになじめないふたりは、フリードリヒ大王のいるベルリンに行くことにする。その途上、アルベールが重病であることを知ったコンシュエロはボヘミアに引き返す。彼女を待っていたアルベールは、コンシュエロと結婚式をあげた直後に息をひきとる。こうしてルドルシュタット伯爵夫人となった彼女は再びベルリンをめざして出発するのであった。このあと物語は『ルドルシュタット伯爵夫人』へと続く。
この小説を構成するふたつの大きな要素は音楽と宗教であろう。このふたつは主人公コンシュエロの中でわかちがたく結びついており、交互に小説の前面に出てくることになる。ヴェネチアやウィーンにおけるエピソードでは音楽が主役を演じ、ボヘミアのエピソードでは宗教のほうが前面に出ている。音楽と宗教は主人公の名によって象徴される魂の慰め(Consueloはスペイン語で「慰め」を意味する)にたどりつくためのふたつの道として用いられている。
目次
一 誕生、少女時代
二 カジミール・デュドゥヴアンとの結婚
三 ピレネへの旅、オーレリアンとのプラトニック・ラヴ
四 ノアンの恋愛遊戯
五 ジュール・サンドウ、パリーの生活、文壇への第一歩、ジョルジュサンドのペンネームをとる
六 マリー・ドルヴァルとの同性愛
七 聴聞僧サント・ブーヴ、メリメとの恋愛に失敗
八 世紀児ミュッセとの恋
九 ヴェニスの恋人たち、破局
十 心の痛手
十一 シャモニイへの旅、フランツ・リスト
十二 ショパンとの恋愛
十三 マジョルカへの旅
十四 若き日の恋人を婿にむかふ
十五 フロオベエルとの友情、晩年、死
わが国最初のジョルシュ・サンドの伝記。表紙はミュッセの筆による「扇」を手にしたサンド像の模写。
背景は淡いアヅキ色、青いドレス姿で振り向いたサンドが妖艶。(装幀は池澤蝋)。「26歳ごろのオーロ
ール(ブレーズ作)」の肖像画一枚を含む。著者については不詳。あとがきに「略年譜は数江譲次氏の好意
による」とある。略年譜は2ページにわたっている。アンドレ・モロワの『ジョルジュ・サンド』より前に書かれたサンドの恋愛を中心とした伝記。メリメとの
「馬鹿げきった失策」についてはモロワより詳しい。最終章、「しかし老けた六十歳のレリヤは、もはや真のレリヤではなかった。彼女のうちに燃えていた熱情
は遂に消えてしまった。彼女の恋愛生活は終わった。五十年の間、彼女の心を咬んでいた情欲の悪魔が去った今となって、彼女は自分が清浄になり、高い友情を
結ぶことも出来るように思えるのだった。」一貫してサンドを魔性の女として捕らえている。(文責 平井知香子)
ジョルジュ・サンドの生涯を、出生の環境から、72歳にノアンに埋葬されるまで緻密に描いた伝記。著者、アンドレ・モロワは1885年生まれ。自身も 作家であり、サンド以外にもシェリーやプルーストなど、多くの文人・政治家の評伝を書いている。『ジョルジュ・サンド』が発表されたのは1952年で、こ の当時にはまだ個人の元に収蔵され、公開されていなかったサンドの手紙や日記、メモ類などを駆使し、作家の波乱に満ちた生涯を再構築している。モロワ自身 の文壇での活動や、そこで得られた知識や人間関係が大いに威力を発揮しており、サンドが活躍した頃の芸術家たちの交流関係、日常生活など、私たちがなかな か知りえないことも、詳細に見ることができる。また、この評伝は、著者が前書きで述べているとおり、サンドを「創意豊かな作家」、「女性が沈黙している時 代の女性の声」ととらえ、「文学史の上で当然彼女の占めるべき名誉ある位置に彼女を与えてくれることを願って」書かれている。資料は非常に細かく、サンド 自身が書いたもの(主に書簡、自伝的作品、メモ類)が元になって構成されているため、読者は作家の声・思いを直接聞きとり、感じることができる。ただ、翻 訳時期がかなり前で、全集の一巻であるために、現在翻訳の入手が非常にむずかしい。原書はHachette社から新版が刊行されているので、それを参照す る方が簡単かもしれない。(文責 高岡尚子)
Charles Mauras(1868-1952)のLes Amants de Venise−George Sand et Musset(1902)の翻訳。著者のモーラスは、政治機関紙『アクション・フランセーズ』を主催。『君主制に関するアンケート』、『知性の未来』の著 者。ナチスのヴィシー政府を擁護したため、第二次世界大戦後に終身禁固刑に処せられる。1952年に健康を害して、ツールの病院に移され、そこで死去。訳 者の後藤俊雄先生は故京都大学名誉教授で演劇、ミュッセの研究家。訳者によると「ロマン派の若き天才詩人ミュッセと美貌の閨秀作家ジョルジュ・サンド--史 上に名高い二人の恋をあらゆる文献と証言を駆使して精緻に分析するとともに、その恋のドラマを心内の舞台で再演することで読者を現にいたましい悲劇に直面 させる。深く人間の心の本質に迫る本書は二人の傑作に劣らぬ文学作品と言える。」彼と彼女の人物分析から始まり、1834年、2月ヴェネチア、ホテル・ダ ニエリでの出来事を中心に据える。ミュッセの病気。イタリア人医師パジェロの登場。ミュッセは病のさなかで「衝立の向こうで二人が接吻している」と想像し た。「それはあまりにも真実だった」そのために「彼の躁暴性精神病が爆発したらしい」「六時間の狂気」とサンドが手紙に書くほどだった。またミュッセの 『世紀児の告白』の最後の部で、自伝的と一般にみなされる箇所に茶碗の挿話(同じ茶碗で二人がお茶を飲んだか?)が出てくる。これについては、1896年 カバネス博士がパジェロと交わした会話や、パジェロの日記『両世界評論』のビュローズの証言をあげ、茶碗の挿話が決定的なものであるとしている。また、 ヴェネチア沖のサン・セルヴィリオ島について、サンドの『ある旅行者の手紙』第三信、「島は狂人と廃疾者で占められている」を引用。1834年にミュッセ が書き留めた「君の医者のところへ駆けつけて、ぼくを気ちがいにしたてようというのだ」という文に結びつけ、彼女が狂気に追い込んだとしている。サンドと 医師がミュッセを看病したことも事実だが、サンドが自己弁護のために彼の狂気を利用したとする説である。作品や手紙、詩、証言などを引用しながら精密に分 析している点、サンドには手厳しいが説得力がある。(文責 平井知香子)
ジョルジュ・サンドの伝記に類する書は、カレーニン夫人、A.モロワを筆頭に、F. マレ、
J.シャロン、J.バリーや近年翻訳されたフォンタナ、ブシャルドーなど数多く挙げられるが、日本人論者によって書かれた評伝としては、現存する唯一の学
術書である。サンドの正確な誕生日をめぐる疑問を解くべく区役所や教会の住民登録を調べあげた著者の熱意は、サンドの作品と生涯に関する緻密で明確な記述
となって全編を覆っている。L.ヴァンサン, E. トマ、
P.サロモン、パイユロン, 時としてはカレーニン夫人の見解にも異議をはさみつつ、著者は書簡にあたり『わが生涯の歴史』を参照することによってあるが
ままのサンド像に肉迫し、その再構築を試みている。珠玉のサンド書簡集全26巻を編纂した朋友、G.リューバンの助言も役立っていると思われる。P.サロ
モンのようにモロワにしたがいサンドの生涯を大きく四期に分類し(J.ゴルミエは、これにニュアンスを加えたが)、作家の生涯と思想、作品を分析してい
る。劇作も含め百編をはるかに超える作品のほとんどについて言及がなされているのは驚異的だ。巻末のジョルジュ・サンド家系図、作品および作家の略年譜
(といえども詳細な年表である)もまた、研究者にとって非常に有り難い資料である。サンド研究者はもとより、サンドの全体像を知りたい読者にも、是非とも
座右に置いておきたい気持ちにさせる評伝だろう。(文責 西尾治子)
サンドの生涯を主に彼女の残した書簡を用いてあとづけているため、彼女が有名になる前までの部分はわりあい短くなっている。サンドとミュッセやショパ ンとの恋愛、友人や家族との関係は詳しくたどられているが、二月革命とのかかわりなどは少ししか触れられていない。なお、著者は本書の初めに次のように書 いている。「彼女(サンド)の中に見られた様々な対立や葛藤は、肉体的にも精神的にも女性でありながら、その頭脳がきわだって男性的な明晰さを示したこと にその原因が求められよう。(...)一通一通の手紙が真に生きた時間を再現する。時には、自分に都合のよいように事実を曲げてもいるが、これも醜くは あっても無理もない、彼女のいかにも女性的な一面を物語るものである。」(文責 坂本千代)
サンドとショパンの間でかわされた手紙は彼の死後サンドが焼いてしまったのでほとんど残っていないが、彼らが他の人々にあてた手紙や他の人々が彼らに ついて書いた手紙で、ふたりの関係を知ることができる。サンドの紀行文や自伝からも彼らの生活を知ることができるが、事実とはかなり隔たった記述があるこ とがわかっている。本書の著者はなるべくオリジナルな資料に基づいて客観的にふたりのロマンスの歴史をたどっていくことをめざしている。引用されている手 紙は英文のショパン書簡選集と仏文の書簡集から訳されており、またサンドの『マヨルカの冬』と『わが生涯の歴史』などがひんぱんに参照・引用されている。 内容は第1章「出会いの頃」、第2章「マジョルカの旅」、第3章「ノアンとパリでの生活」、第4章「破局への道、別離」。サンドの子供たちとショパンの関 係が特に詳しく述べられている。著者は他にもショパン関係の研究や翻訳書を出している。(文責 坂本千代)
大革命前夜に始まり、サンドが生まれたナポレオン帝政期、さらには晩年である1870年代までのフランスの社会状況の解説を背景に、ジョルジュ・サン ドの生涯と作品が紹介されている。著者は服飾史の専門家で、モードに関する著作も多い。サンドが「なぜ男装をしたか」という興味に端を発して書かれた本書 は、その原因があると思われる幼少期について多く筆をさかれている。また、サンドが女性ながら作家として自立しようとする時期の葛藤、その時期に果たした 「男装」の役割、作品に与えた影響も詳しく述べられている。サンドの肖像画・デッサン画(男装をしているものも含め)や、当時のモード写真などもふんだん にちりばめられているので、具体的なイメージを思い描きながら19世紀の歴史、風俗とともにサンドの存在を理解することを助けてくれる。本書は、「男装」 についての考察に始まっているが、全体としてはむしろサンドの全生涯を評伝として表したものと捉えることが可能であり、作品の紹介も多いので、ジョル ジュ・サンド入門書として有効に活用することができるだろう。(文責 高岡尚子)
副題は「木靴をはいて月をとろうとした夢想家」。序文で著者は次のように述べている。「私はジョルジュ・サンドとなったオーロール・デュパンの人生か ら八つの日付を選び出し、並べることで、彼女を発見しようと努め、私独自のやり方でその概要を書いてみようと思った。ちょうど水に小石を投げこんだときの ように、私はこの八つの日付のまわりに、しだいに外へと広がってゆく輪を描きたいと思った。その輪こそが、ひとつの生涯の緯糸を構成しているのである。」 八つの日付は1821年9月17日(オーロール17歳)、28年1月22日(23歳)、35年4月15日(30歳)、42年6月6日(37歳)、48年8 月23日(44歳)、58年6月1日(53歳)、67年10月4日(63歳)、72年12月1日(68歳)である。著者ブシャルドーは大学で教育学を教え るとともに組合活動等をつうじて政治にかかわり、環境問題担当大臣をつとめたこともある女性で、本書のほか小説やフェミニズムにかんする著作を発表してい る。(文責 坂本千代)
ジョルジュ・サンドの生涯と膨大な作品について、おもに彼女が作家として自立していく過程および二月革命との関わりに重点を置いて解説している。サン ドの作家としての成熟はまた人間としての成熟であった。ショパンのような芸術家や、医者、政治家などさまざまな仕事を持つ人々とつきあうにつれ、彼女の目 は労働者、農民、そして多くの女性たちの恵まれない生活に向けられるようになり、貧富の差と社会的不平等があまりにも大きい当時の社会(ルイ・フィリップ 王の七月王政)にたいする批判と改革への熱意を自分の作品に盛り込んでいったのであった。その頂点が『スピリディオン』『コンスエロ』『ルドルシュタット 伯爵夫人』であるといえよう。本書では特にサンドのこの3つの小説を検討し、また当時のサンドの師であった社会思想家ピエール・ルルー、宗教家ラムネの影 響等を分析している。なお、本書は高校生くらいの年代の読者を想定して書かれている。(文責 坂本千代)
サンドとショパンの初めての出会い(1836)に始まり、二人が7回の夏を過ごした(1839〜1846)ノアンでの日々が描かれている。「ショパン の愛人サンド」とはよく用いられる表現であるが、実際の二人の関係、生活がいかなるものであったかを知るに、この著作は適している。パリの喧騒を離れ、サ ンドが丹精を込めて作り上げた、小コロニーとでも呼ぶべきノアンの館で過ごされた日々は、ショパンとサンド双方にとって充実した創作活動の時であった。 ジョルジュ・サンドがその主たる作品群(社会主義的小説群から田園小説群初期)を執筆したのがこの時期である。作家にとってノアンが重要な役割を果たして いるのはもちろんのこと、ショパンにとっても、ノアンとそれを取り巻く環境が欠くことのできないものであったことを、この本を通して私たちは理解すること ができる。作家・女性としてのサンド、音楽家・男性としてのショパンという関係に、母親としてのサンドという要素がどのような影響を与えたか、という考察 も興味深い。著者はフランスのコレージュで教鞭をとりながら、サンドの研究をしている。(文責 高岡尚子)
ジョルジュ・サンドにおけるフェミニズムと政治の問題につねに関心を抱き続けてきた著者が、おもに田園小説および作家と1848年の二月革命とのかか わりについて探究した論文の集大成である。『サンドわが愛』の独創性は、その社会学的アプローチと実証性にある。農村における土地所有の問題、労働の問題 (麻打ち家内手工業、出稼ぎ)、また農民の生活事情(食料、医療、捨て子の問題)について、文盲率、穀物生産価格、パンの値段、労働者賃金に関するノアン を含めた三地方の比較など当時の統計資料を駆使して詳細かつリアルに説明されている。当時、政府はマルサス理論に基づき福祉予算を削減、人々に倹約を奨励 する政策をとっていたが、サンドはこれに反対。この経済政策は農村を窮乏させ、捨て子問題を派生させたからだ。『捨て子フランソワ』は、この社会的背景お よびシングルマザー、親権の問題についてのサンドの深い考察から生まれた作品であることが、エスキロスの捨て子理論とともに解明されている。また女性解放 の章では、一部のインテリ女性の政治参加要求運動に批判的なサンドのフェミニストとしての姿勢について様々なサンド研究家の意見を紹介し、作家は女性の問 題を含めたより広い社会のパラダイム変革を希求していたのだと結論づけている。このほか二月革命とサンドとの関係については、サンドが積極的に関わった 『共和国公報』の貴重な資料が添付され、息子モーリスに宛てた書簡を手がかりに、作家とクーデター計画あるいは臨時政府との関係が詳しく読み明かされてい る。サンドの田園小説を客観的により深く理解するために不可欠の研究書である。(文責 西尾治子)
ジョルジュ・サンドの生涯とおもな作品を紹介しつつ、それらの現代的な意味について考えている。全体は4部からなっていて、第1部でオーロール・デュ ドヴァンがジョルジュ・サンドとなるまでを解説したあと、第2部では1837年頃までの彼女の生活と作品を扱っている。特にここではサンドの有名な男装に ついて考察している。第3部では二月革命頃までのサンドと彼女を取り巻く人々、音楽家リストや女性作家ダニエル・ステルンとの交流、当時の女権運動家たち とサンドの女性論の相違に注目している。第4部はサンドの晩年の作品および劇作を分析するとともに、「ロマン派世代として」「女流作家として」そして「フ ランス文学の作家として」の彼女を考察したあと、最後に日本におけるサンドの作品の翻訳と受け入れの歴史を概観している。(文責 坂本千代)
ごく一般向きのサンド伝として楽しく読みやすい本書のオリジナリティは第1章「ノアンの館を訪ねる」にある。ここでは現在サンド記念館となっているノ
アンの館を著者が訪れたさいの印象や現在の様子が報告されているだけでなく、サンド家3代の女性たちが残した料理のレシピのいくつかが紹介され、それらが
サンド一家のこの館での生活をほうふつとさせるしくみとなっている。著者は東京芸大出身、短大の音楽科で教鞭をとる女性。シルヴィ・ドレーグ=モワンの
『ノアンのサンドとショパン』の訳者であり、また1997年にはサンドの『マヨルカの冬』の翻訳に当時のマヨルカ島を描いたJ・B・ローランの貴重な絵を
そえたものを出版している。『自立する女ジョルジュ・サンド』の執筆意図について著者は「あとがき」で次のように述べている。「サンドが送ってくれるエー
ルを、自分だけのものにしておきたくない。自分が納得できる生き方をすること、希望を決して捨てないこと、そういったサンドの考えを伝えられたらと願っ
た。」(文責 坂本千代)
ロマン派の若い詩人でダンディな青年ミュッセとサンドは1833年に出版社主催の晩餐会で出会う。彼らは意気投合し、すぐに恋愛関係となり、やがてふ たりはロマン主義者のあこがれの地イタリアへと出かけていく。旅の途中でまずサンドが病気にかかってふたりの間に暗雲がたちこめはじめ、ヴェネツィアに着 くとミュッセが病に倒れる。恋がさめかけていたサンドは美男のイタリア人医師パジェッロに心を移し、ミュッセはひとり帰国する。その後サンドはパジェッロ とともにパリに帰るが、彼との恋もさめてしまい、傷心のイタリア人はヴェネツィアに戻っていく。サンドとミュッセはまた愛しあうようになるが、それもつか のまであった... ふたりの文学者のこのあまりにも有名な恋のいきさつを、彼らの手紙、サンドの日記、紀行文、自伝、さらにまたミュッセの作品やパ ジェッロの日記などを駆使して詳細に描いている。著者はグルノーブル大学教授でサンドの研究者、他にもサンド関係の著作を発表している。(文責 坂本千 代)
2004年のサンド生誕200年記念出版で、「日本ジョルジュ・サンド研究会」会員8名による共著。内容と担当者は以下のとおりである。
序章 ジョルジュ・サンドの生涯と作品(坂本)第1部 女性作家のエクリチュールの戦略
第1章 『アンディヤナ』の戦略 ー 流行作家への道(石橋)
第2章 『レリヤ』改訂の意図を考える(吉田)
第2部 芸術、そして社会へのまなざし
第1章 ジョルジュ・サンドの小説における芸術家像(渡辺)
第2章 田園四部作に見る、パリと地方と理想郷(高岡)
第3章 ジョルジュ・サンドの作品に見る演劇性(秋元)
第3部 未来への夢 ー 晩年のサンド
第1章 『マドモワゼル・メルケム』に見る理想の女性像 ー 35年後のサンド流ユートピア(坂本)
第2章 ジョルジュ・サンドと犬 ー 『アンディヤナ』から『犬と聖なる花』まで(平井)
第4部 ジョルジュ・サンドの物語世界における「語り手」の意匠(西尾)
第1章 女性作家の内在的創造戦略と「語り」の手法 ー 『アンディヤナ』ー謎の「語り手」と「私」(je)
第2章 多声的物語世界と「語り」のパラダイム ー 『レリヤ』から『モープラ』へ
第3章 『オラース』 ー 「語り手」と歴史の記憶
本書はジョルジュ・サンド生誕200周年記念として藤原書店から発行される「ジョルジュ・サンド セレクション」(全13巻・別巻1)のプレ企画とし て発行された。ミシェル・ペローの序文のあと、サンドの生涯と作品についての解説があり、付録としてサンドの同時代人(バルザック、ボードレールら)の証 言、サンドの著作一覧、サンド略年譜がおさめられている。本全体に図版が多く、ビジュアルな面でも楽しめるサンド入門書である。(文責 坂本千代)
明治41年(1908年)に発行された雑誌『帝国文学』の第8号と第9号に掲載されたヂョルヂサンなる人物の『せつるい』という小説が日本で初めて翻 訳されたサンド作品ではないか。本書の著者はさまざまな方向からその答を出そうと試みている。『帝国文学』連載の当該作品を復刻したものを巻末に収録して いる。また、サンドの古い翻訳本の表紙など貴重な図版も含まれている。(文責 坂本千代)
著者が勤務校カリタス女子短期大学の研究紀要に発表した8篇の作品をまとめたもので、いわゆる研究論文集とは違って、紀行文もほぼ毎回含まれている。
著者はサンドが晩年に孫娘たちのために書いた『おばあさんの物語』に端を発し、そこからサンドの人生をさかのぼり、その生き方にますます関心を深めて行っ
た。パリ、ノアン、マヨルカ島、ガルジレスなど、サンドゆかりの地の旅の記録にもなっているので、旅好きの読者には興味を持たれるかもしれない。掲載の写
真はほとんど著者の撮影による。サンドの作品、ことに『おばあさんの物語』には子どもたちへのメッセージがたくさんこめられている。それが現代でも全く色
あせていないばかりか、人生とは、仕事とは何かということを深く考えさせてくれる。今こそ、少年少女に、また若い母親たちにも読んでもらいたい作品だと思
う。(文責 樋口仁枝)
サンドについての本(日本語のもの)紹介
(刊行年、書名、作者名)
-2013『ジョルジュ・サンドと四人の音楽家』坂本千代、加藤由紀
-2013『ユニコーン』原田マハ
-2012『200年目のジョルジュ・サンド』日本ジョルジュ・サンド学会
-2005『ジョルジュ・サンドへの旅』樋口仁枝
-2004『日本におけるジョルジュ・サンド』平井知香子
-2004『ジョルジュ・サンド 1804−76』持田明子
-2003『ジョルジュ・サンドの世界』秋元千穂、石橋美恵子、坂本千代、高岡尚子、西尾治子、平井知香子、吉田綾、渡辺響子
-2000『赤く染まるヴェネツィア ー サンドとミュッセの愛』ベルナデット・ショヴロン-1998『自立する女ジョルジュ・サンド』小坂裕子
-1997『ジョルジュ・サンド』坂本千代
-1996『サンドわが愛』山方達雄
-1992『ノアンのショパンとサンド』シルヴィ・ドレーグ=モワン
-1992『愛と革命 ー ジョルジュ・サンド伝』坂本千代
-1991『ジョルジュ・サンド』ユゲット・ブシャルドー
-1988『ジョルジュ・サンドはなぜ男装をしたか』池田孝江
-1982『ショパンとサンド ー 愛の軌跡』小沼ますみ
-1981『ジョルジュ・サンド』マリー=ルイーズ・ボンシルヴァン・フォンタナ
-1977『ジョルジュ・サンド評伝』長塚隆二
-1972『ヴェネチアの恋人たち ー ジョルジュ・サンドとミュッセ』シャルル・モーラス
-1954『ジョルジュ・サンド』アンドレ・モロワ
-1948『情焔の作家ジョルジュ・サンド』近藤等